鎌倉・もやい工藝  手仕事レポート


TOP
 
もやい工藝について
 
新着品紹介
 
板の間ギャラリー
 
推薦工芸品
 
仕入れ日記
 
日々の暮らし
 
手仕事レポート
 
地図・お問い合わせ
 
更新履歴
 
ブログ
 
facebook
 
手しごと
 
ネットショップ「SILTA」開店いたしました
 
LINK集

その2 砥部焼中田窯

5月も半ば、愛媛の山も色とりどりで元気な季節です。

松山城




今回は、松山ROSAの門田さんに同乗させていただき、愛媛県伊予郡砥部町(旧 広田村)にある砥部焼(とべやき)の窯元、中田窯さんへ。
職人の中田正隆さんは、砥部で最大規模の窯元である梅山窯(ばいざんがま)での修行を経たのち、名古屋工業技術試験場での釉薬の研究、海外での作陶指導などを経られ、1974年にご自分の窯を開かれました。それからおよそ40年、職人として磁器の仕事をされてきた方です。
また、ご自身の仕事のことだけでなく、民藝のこと全般に関して、あれは良いもの、あれはそうでもないもの、とはっきりした意見をもっている方で、職人でありながら美の追求に余念のない方だと感じました。

@工房見学

始業は午前9時。伺ったときは従業員の方が削りの作業をされていました。

そば猪口の削りをされているところです。
そば猪口は中田窯さんでよく作られているもののひとつで、手慣れた様子で手早く均一に形が整えられていきます。

工房のすぐ奥の部屋に窯があり、伺った日はちょうど窯出しの日でした。
砥部では、比較的上がりが均一なガス窯の使用が主です。中田窯さんもガス窯。

窯の中のうつわ

 

磁器の焼成について、

中田さん曰く、「焼き上がり具合は、ものによってどうしてもムラがでてくる。登り窯なんかで焚くとそのムラはとても大きい。陶器の場合はそのムラが味になるが、磁器では欠点になってしまう。」とのこと。
その点、ガス窯は窯全体の焼き上がりが比較的均一になるため、常に一定以上の焼き上がりを求められる職人の仕事、特に磁器生産には向いている窯なのだそうです。

 

 

A中田窯のうつわ

どこか上品な雰囲気のある中田窯のうつわですが、砥部焼特有の重量感は健在です。
違うのは重量感から得る印象かと思います。個人的には、全体の柔らかい雰囲気も手伝ってか、厚手の磁器特有の堅牢な印象よりも、ものとしての安定感・安心感といった印象が先立ちました。

中田窯のうつわ

 

2-1素材の工夫 陶石

伊予砥の採石上、上尾峠

陶石は、他の砥部の窯元と同じく、窯の北側にそびえる上尾峠(うえびとうげ)にある採石場の伊予砥(いよど)を使っていますが、中田窯の土は肌合いが砥部の他の窯のものよりもやや荒っぽく、土らしさが残っているのが特徴。

砥部焼 くらわんか

左:砥部梅山窯
右:砥部中田窯
(写真では分かりづらいかもしれません)

これは、採石場で精製された際に取り除かれた不純物の一部を工房であえて混ぜ直して土に使っているため。初期伊万里の肌合いに惹かれ、当時のような不純物を取り除ききらない土を使おうとご自身で工夫された結果だそうです。

これにより自然の土味が戻り、素朴さや温かみが出てきているように感じます。

濱田庄司さんが陶土の加工について「それぐらいがいい。それ以上挽くと土の力が抜けてしまう」と陶工たちを指導する際たまにおっしゃられていた、という話を思い出しました。(多々納弘光さんの出西窯の本で出てきたと思います)

参考:初期伊万里(愛媛民藝館)

 

2-2絵付け

工房併設の売り場にある見本
絵付けのバリエーションの多さに驚きました。

華やかで目を引くもの、品があってで大人しい印象のもの、てらいがなく平常の食卓に似合うもの、同じ土、同じ釉薬、同じ形でもこれだけ印象が変わります。ものは形が第一だと思いますが、絵付けによってものの印象がだいぶん変わってくるというのもまた事実だと思います。

これだけある絵付けのバリエーションですが、すべて古作からとってきた文様だそうです。文様について「こういうもの(絵付けの施された焼物)が作られ始めた頃から何百年、そんな長い間受け継がれ、洗練されてきた文様よりいいものを、たった三、四十年しか仕事をしていない自分が生み出すのは無理なこと。」「そういう昔からある文様、伝統的な文様というのは、一番違和感のない文様。とても超えられない。」と潔くおっしゃられていたのが印象深かったです。

中田窯さんでは砥部の民窯では珍しく、辰砂の釉薬も絵付けに利用されています。
ただし辰砂は色が出の良し悪しにむらがあり、多産には向かないとのこと。安定した数と出来が保証できないため、出来上がってあるものを買っていってもらうというのが基本だそうです。

個人的には、日常の料理の器としては、磁器の白い土肌に渋めの呉須一色で絵付けしたもの控え目な美しさにより惹かれました。日用雑器として、たとえば料理の引き立て役として、主張しすぎないけれどもしっかりと役目を果たしてくれる、そういう点でも良いと思います。

また、中田さんの磁器の土肌の色と呉須の色はとても相性がよく、馴染んでおり落ち着きます。できてきたものが一つのものとしてよくまとまっていて、おさまりが良く美しいのだと思います。

呉須の染付のそば猪口
涼しげですが、どこか温かく馴染みやすさがあります。

 

中田さんの絵付け。(6寸皿)
繊細でいて伸びのある筆使いが心地よいです。

 

中田窯のうつわの文様は中国や初期伊万里などの伝統的な古作を参考にしてありますが、どこかモダンな雰囲気もあり、現代の洋風家庭料理、カレーやパスタなどの器もそつなくこなしてくれます。一人前の一品料理がちょうどおさまる大きさ。とても使いやすいです。

うつわに絵付けをする窯でも、民陶の窯でここまで絵付けの種類がある窯はそうそうないのではないかと思います。
見学の最中、あまりにたくさんあったので見本の棚をじっくり眺めていたら、いつか久野さんが「いろんな模様に手を出し過ぎるのはあまりよくない。ひとつひとつが疎かになって、力が抜ける。ひとつの模様、一連の動きを繰り返しすることで、ひとつひとつの線が、てらいのない、生き生きとした力強いものになっていく。」「てらいのない線、おおらかな線、筆の勢いに力が感じられるのが良い仕事、良いもの。」とおっしゃっていたのを思い出し、非常に悩みました。実際にものを前にしている今、肝心なのは後者のほう、目の前の絵付けは「てらいのない線」「おおらかな線」「筆の勢いに力があるか」、果たしてどうだろうか、としばらく見ていたのですが、途中でよくわからなくなってきてしまいました。

無理に答えらしいものを出してしまうのは間違いのもとだと思い、今回のレポートでは、とりあえず今の自分が素直に受けた印象を書き留めておくことにしました。のちのち、ずっと先かもしれませんが、何か答えに辿りつけたらと思います。

 

2-3仕上げ

大半の磁器は、最後の仕上げに透明釉で上掛けされています。砥部では、光を均一に反射する滑らかな透明釉が厚くかけられているものをよく目にします。

中田さんはこの透明釉を、ゆず肌といって少し凹凸のある仕上げにすることで、光の反射を抑える仕様になさっています。これにより磁器特有のキンと弾かれる感じが緩和され、手肌との馴染みやすさが出てきているように感じました。

ゆず肌仕上げ

ただ、上に書いたような繊細でありながら伸びのある筆の流れや地肌の素朴な風合い、そういった、率直に作り手の良い仕事ぶりや素材の姿が表れてくるところにモヤがかかって見えにくくなってしまうのは、少し勿体ない気もしました。

素朴な風合いの土、繊細でいて伸びのある絵付け、馴染みやすい肌合い、個人的に感じている、中田窯のうつわの魅力です。
また、味な美しさももちながら普段使いのうつわとしての身近な雰囲気を損なわず、伝統を踏襲しつつどこか垢ぬけた印象もある中田窯のうつわは、身近に手仕事がなく、民藝と聞くとなんとなく遠巻きにしてしまう、民藝品を見ても物珍しさが先立ってしまいがち、という人も比較的とっつきやすいようで、そこも大きな魅力のひとつかと思います。

 

 

B民藝における工夫の問題

すでに上でも少し紹介しましたが、今回の見学では、職人の中田さんに磁器生産の立場からのガス窯の使用についていくつかお話を伺いました。

まず、磁器の焼成は還元焼成。通常の陶器の酸化焼成に必要な温度が1000〜1300度であるのに対し、還元焼成は1300〜1400度まで窯の温度を上げなくてはなりません。高温で焼くということは、そのぶん陶器よりも燃料が必要です。登り窯のように薪を使って焚くと、ガス窯の20〜30倍近くの燃料費がかかってしまうそうで、普段使いのうつわとして売れる値段ではなくなってしまうとおっしゃっていました。

「もし仮に、自然の炎の力で偶然とても上がりの良いものが一つできたとしても、残りはB品になってしまう。炎による変化は陶器では味になるけれど、磁器では大半が、そうはならないものなんです。そうすると燃料費も相まって、一個の値段を飛躍的に上げざるを得なくなってくる。丈夫で使い良い日用雑器を作るのに、それでは、やはりいけないので。
と中田さん。

「手間暇かけてたった一つのいい作品を」というのは作家のやり方であって、「多産によって健全な生活のうつわを」という職人の仕事ではない、ということなのだと思います。

個人的に感じたことに過ぎませんが、中田さんは、ものの美しさに目の向く職人さんで、良いものを作ろうという工夫を怠らない姿勢を常にもってらっしゃり、だからこそ、常に職人としての仕事の域を意識して仕事をされているように思いました。

ものの良さを追求するのは必要なことだけれども、そればかり追っていては職人としての仕事を逸脱してしまう。日用雑器としてのうつわを作るために、踏みとどまらなくてはならない境界、美しさに関して妥協しなくてはならない点がどこかにあるのかもしれない、という考えが今回少し実感を伴って浮かんできました。

それだけ言うとそれが悪いことのようですが、そうして一個一個に神経質にならないことが、ものの「おおらかさ」や「てらいのなさ」といった民藝の美しさを生むこともまた事実であると思います。逆に、奇をてらうようなこと、作為的に味や造形を追求しすぎることは、かえって素材の良さや健全な仕事ぶりを損なうことになりかねないという側面もあります。

私たちは美しい手仕事のもの―民藝を求める姿勢は常にもっていますが、それにばかり気を取られては本末転倒になる。むしろ用に徹し黙々と仕事に取り組むことが至高の美しさを生むこともある。民藝の難しいところだと思います。これから、この道で生きていく自分にとっても、ひとつ大きな壁になってくる問題かもしれない、と心に残りました。

2015年6月 藤原 詩織

  手仕事レポート TOP